Q太郎の『いぎなり怒らった』

~しみわたる一杯の水~

出産で30歳でしごとやめたら、人生で何円損するか

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あるしらべによると、出産を機にしごとをやめてしまう人の数は年間に20万人*1

 

今、しごとをしている女性が妊娠したら、3人に1人はやめてしまいます。

 

ところで、妊娠・出産のために仕事をやめた場合、長い人生でどのぐらい収入が減ることになるのか考えたことがあるでしょうか?

 

これを実際に計算してみた人がおり、先日その結果を公表しました。

 

◆しごとをもつ女性に子供ができるとどうなるか

 

女性にとって、妊娠・出産は人生の一大イベントです。

 

子どもをとるか、仕事をとるかという究極の選択にせまられるということを多くの女性が経験していることでしょう。

 

じっさい、妊娠しながらしごとをつづけることには大きな負担がともないます。

 

たとえば、つわりの真っ最中であるであるにもかかわらず、となりの席にいる同僚がヘビースモーカーだったら・・・考えただけで、気が遠くなる話です。妊娠中は立ったり座ったり、それだけでもひと苦労になっていきます。妊娠中でありながら仕事をつづける女性には頭が下がります。

 

女性が育児しながら仕事をするのを積極的に支援しようという会社もずいぶん増えているようです。

 

その一方で、「うちの会社はそういうのにあまり理解がないんだよね…」というママの声も耳にします。たとえば子供が急に熱を出して会社を休まなくてはならなくなったが、上司の対応が冷たい・・・といったぐあいに。

 

ですがそれぐらいならまだいい方だ、と思えてくるデータもあります。

 

会社に妊娠したことを報告したら退職をすすめられた、ということも現実にあります。妊娠・出産を機に退職した人の10~15%の人は、会社から解雇されたり、退職をすすめられたという調べがあるぐらいですから、実際にはかなりの数の人がそういった経験しているはずです。*2

 

この時代に、そんな職場が1割以上もあるのか、と耳を疑いたくなるぐらいですが・・・。

 

こういったことを知っていけば、女性が社会に出て仕事をしていくということがいかにたいへんか、じわじわと感じられます。ため息がもれそうです。

 

◆しごとを辞めたら人生でどれぐらい損をする?

 

出産によってしごとを辞めてしまえば、もちろんそれまでえていた収入もなくなります

 

はたらく女性が仕事をやめたばあい、やめなかったときと比べてどのぐらいの収入減になるのでしょう?また一生涯ではどのぐらい差が出るのでしょうか? 

 出産休暇・出産休業のイラスト

 

たとえばAさんは30歳のときに妊娠し、これを機に退職したとします。

 

Aさんはごく平凡な正社員で、給料も正社員としては平均的な額をもらっています*3

 

いったんは仕事をやめたAさんでしたが、子どももだんだん成長して手がかからなくなってきたこともあり、40歳のときにふたたび仕事をはじめました。ただ家庭との両立なども考えてパート職員としてはたらきました

 

そしてAさんは60歳になるまではたらきました。

 

そんなある日、Aさんはあるときふと思いました

 

「わたしはあのとき仕事をやめて、今はパートをやってるけど、もしあのとき仕事をやめないで今までつづけていたらもっとたくさん給料をもらっていただろうなぁ」

 

さて、Aさんはもし仕事をつづけていたらどのくらい多く給料をもらっていたことになるのでしょうか。

 

結論からいえば8300万円ぐらいは多くもらっているはずです。

 

Aさんのようなケースでは、ごく平均的な正社員として30歳から60歳まで仕事をやめずに働いていれば、それぐらいの差が生じます。

 

具体的にいえば、まず30歳から40歳までAさんはお勤めをしていなかったので収入はゼロです。そのあとパートとして(非正規社員)として働くのですが、やはり正社員として継続して勤めていた場合と比べると給料に差が出ます。これらを合わせると30年間で8300万円ぐらいのちがいが出る、というわけです。

 

一人の人生を考えたとしても、大きな金額ではないでしょうか。

 

さらに女性の出産・退職によって損をするのは退職する女性たちだけではありません。女性がやめてしまうことで会社も損をしています。能力のある女性がやめてしまうわけですから、会社が痛手を受けるというのは当然といえば当然です。

 

最初に紹介したとおり、働く女性は一年間に20万人もやめています。もちろん一人一人の女性も収入がゼロになるので日本全体として考えるとぼう大な額になります。その額およそ6000億円。

 

さらに企業も損をしているので(優秀な女性がやめているので)その分も合わせると1.2兆円ぐらいの損をしていることになります。これが女性が出産・退職することによって生じている経済的な損失の額です。日本全体が損している、という話です。

 

私たちがこれだけ損をしている、日本全体としても大きな損をしているということは、主要なメディアでも取り上げられました。

 

「だからナニ?」と思われるかもしれませんが、背景には「少子化と高齢化がすすんでいるので世の中のにない手がどんどん減っている、このままでは近い将来、会社も世の中もたちゆかなくなる」という状況があります。

 

たとえば今ですら働き手不足に苦しんでいる介護のしごとなどは、この先さらに働き手が減っていったらいったいどうなるのでしょうか?数十年後私たちの足腰が立たなくなったころ、いくらお金があっても介護してくれる人がいないかもしれません。

 

あるいは体調を崩し、病院に行きたくてもお医者さんはおろか看護師さんもいずれはいなくなってしまうかもしれません。

 

このままいくといつかはそうなるということがはっきりしているので、こういう危機感を現実のものとして感じている国のトップなどはどうにかして働き手(労働力)を確保していかなくてはならない、と本気で考えています。

 

そのために、働くお母さんの力をなんとしても借りなければならないという、切実な場面がすぐそこまできています。

 

たとえば先ほど「8300万円の損をしている」という例をあげましたが、これだって人それぞれの価値観ですから、「子育てに専念したい」という人もいるわけです。子供ができたときにいちいち「8300万円と、子育てとどっちをとろうか・・・」なんて迷っている人はいないでしょう。ただ、「キャリアと家庭のどっちをとるか」という選択には、常に女性はせまられている、とも言えます(これは女性に限ったことではありませんが)。

 

わざわざ専門家が計算しなくても、「退職しないでキャリアを積みかさねたほうが収入も地位も高いだろう」ということぐらい誰でもわかるわけです。にもかかわらず子供ができたときに「子育てに専念したい」と考える女性は少なくありません。たとえばある調べでは働く女性のうち10人のうち3人から4人は、子育てに専念するために自発的に仕事を辞めたと答えています*4私はこのことにむしろ希望を感じます。

 

キャリアをかさねて会社や職場の中で出世し、バリバリ働く女性を見ると(男性から見ても)「スゲーなー・・・」と思ってしまいますが、同時に子供を産み育て、一人前にするということも、これも職場で活躍するのにも勝るとも劣らない立派な仕事です

 

「日本が解決しなくてはならない最優先の問題は少子化だ」と考える人は少なくありません。ですが同時に、「女性にもっともっと社会に出て活躍してもらう必要がどうしてもある」という状況もあります。なにより、優秀な女性は実は多いのです。

 

◆女性こそが日本を救う

こう考えてくると、なんだか女性ばかりたいへんなように思えてきます。

 

そもそも女性は社会に出ては仕事をし、家庭を持てば家では母として妻としての責任を負うことになります。そういう女性の一日は、目もまわるように過ぎていくことでしょう。

 

よく、子育ては誰にも認められず、ほめられもせず、報酬もないことからある種のむなしさを女性は感じるといいます。

 

しかし(突然ですが)ちょっと待ってください。

 

だれも認めてくれないのなら、私が認めます。

 

「お前は誰なんだ!!」

 

という声が聞こえてきそうです。

 

私はおでこが少し広くなりはじめたただのおっさんです。

 

ですが

 

子どもを産んで、愛し、そして一人前になるまで大切に育てるということはもうそれだけですごいことなんです。

 

なみたいていのことではないのです。

 

それだけでお母さんはえらいのです。

 

ダンナが子育てに興味がなくても

 

あるいはダンナがいなくても

 

だれもほめてくれる人がいないかもしれません

 

ならば私がほめましょう

 

お母さんはえらいのです

 

お母さんはつよいのです

 

お父さんよりもずっとずっとつよいのです

 

その証拠に、お父さんがいないときでもお母さんはちゃんと子供の世話をしています

 

どんなにつらくても子供の世話だけはしてから自分は寝ます

 

(お父さんは先に寝てしまいます。すみません。)

 

 

話はだいぶ脱線しましたが、それだけ女性の力が求められる世の中になってきている、さらにそういう世の中になっていく、ということはまちがいないでしょう。

 

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※本稿で使用したデータはすべて、第一生命経済研究所による2018年8月1日のニュースリリース「出産退職の経済損失1.2兆円 ~退職20万人の就業継続は何が鍵になるか?~」を参考にしたものです

 

*1:第一生命経済研究所 2018年8月1日ニュースリリース「出産退職の経済損失1.2兆円」

*2:厚生労働省平成27年度 仕事と家庭の両立支援に関する実態把握のための調査研究事業報告書 労働者アンケート調査結果」

*3:女性正社員のばあい。

*4:厚生労働省平成27年度 仕事と家庭の両立支援に関する実態把握のための調査研究事業報告書 労働者アンケート調査結果」によると正社員の29%、非正社員の41%がそう答えています

1時間半歩きつづけた結果、オレのカラダだけじゃなく心にも起きた変化

市中心部までの5㎞ぐらいの道のりを、気が向けば歩くことがある。

 

車で20分ぐらいの距離は、歩けば片道1時間半はかかる。帰宅後、「どうやって帰ってきたの?電車?」ときかれるので、歩いて帰ってきたと言うと

 

「バカじゃないの?!」と言われる。

 

「ふつうでしょ」と返事をすると秒速で「バカじゃないの?」とまた返ってくる。

 

 

震災でインフラが停止したときには仕方ないからみんな歩いて帰ってきただろう。でもそうでもない限り歩く距離ではない。

 

そんなことをやっているからヘンなヤツだと思われるのだが、なぜこんなことに挑むのか?

 

そもそも1時間半もぶっ通しで歩きつづける、なんてことができるのか?できるとしたらなんでそんなことするのか。

 

これには深いわけがある。いや、わけはいいとして案外いいものだということをどうしても言いたかった。

 

1時間半も歩いていると不思議なことが起こってくる。

 

まずこれだけの時間を歩くうちにとっくに有酸素運動に突入している。だから体の中でいつの間にかなにかのスイッチが入って活動モードに入っている。心臓の鼓動も速くなっているし、脂肪もガンガン燃えているにちがいない。

 

体が熱く燃えてくる。これが一つ目だ。しばらくは体の中からほてるような感じが消えず、小さいころにプールに入ったときのような感覚になる。コアマッスルが発熱し、深部体温が上がっているはずだ。深部体温が上がるということは免疫力の向上という効果も期待される。(ちなみにこのあいだたまたまタニタの体重計に上がる機会があったが、内臓脂肪は9段階のうちの最低レベル、基礎代謝は9段階のうちの最高レベルだった。)

 

さらに変化が現れるのは体だけではない。ボーッ・・・としていた頭の中もスイッチが切り換わり、いつのまにかモリモリとやる気が湧いてくる。初めはとりあえず歩き出しただけだったのが、どこまでも歩いていきたい気分になってくる。歩いて行ける気がしてくる。

 

体じゅうから汗が噴き出て、気分がハイになっている。さっきまで家でゴロゴロして「あ~、出かけるのだりぃな~・・・」などと言っていたのが嘘のようだ。

 

駅までの道のりはほぼ平坦な道がつづく。しかし終盤にさしかかるとけっこうな登りの場面もあって、おおげさにいえばゴールまでに箱根駅伝さながらのドラマがあると言ってもよい。

 

 

ただ、こんなことを体力に自信があってやっているわけではない。

 

小学生のころに登山に行ったときには同級生のペースについてゆくことができず、だいぶ苦労したことをおぼえている。高校生のときには自転車で数10㎞離れた海まで行ったこともあったが、そのときも仲間にだいぶ置いていかれた。

 

だから体力については自信よりも劣等感のほうががはるかに大きいのだが、なぜか性懲りもなくまた挑戦しようとしている。

 

自信がないからこそそれにこだわっているのかもしれない。ふつうの人がやろうとも思わないような距離を、自力で歩いたり走ったりすることで、それを補おうとして。人間にはそういう心理があるということを、ある心理学者も指摘している*1

 

しかしきっかけの一端になっているのは、昔、祖父や祖母から聞いた話だ。

 

だれしもがじいちゃんとばあちゃんを持っている。親や祖先に抱く思いは人それぞれだとは思う。なかにはじいちゃん・ばあちゃんの顔を見たこともないという人だっていると思う。じいちゃんが二人、ばあちゃんが二人だれにも必ずいる。それを意識することもなく生きている人も世の中にはいるはずだ。

 

そういう人であっても”自分の祖先がどんな人だったか”に多少なりとも関心があるだろう。まして家族として暮らしていれば大きく影響されることもある。

 

そしてたまたま祖母に聞いた話によって、少々おおげさに言えば今の自分が後押しされてもいる

 

 

祖母が小さいころ、町までの道をよく歩いたそうだ。

彼女が育ったのは旧い街道ぞいにある小さな町。隣りの町まで約5㎞、いまの自分がおかれている状況と似ている。

 

隣りの町は昔からこの地方の「中核」とも言える都市で、江戸時代からは城下町として発展してきた。当時ジャーナリストでのちに首相にもなった石橋湛山という人は戦争末期にこの町に疎開してきたことがあるが、のちにこの時のことを思い出してこの町を「小さな都会」と表現している*2。そこから約5kmほど行ったところで、彼女は暮らしていた。

 

ところで「おじいちゃんこ」「おばあちゃんこ」という言い方をするが、祖母はそのどちらでもなく「お母さん子」だったらしい。よく母親のことを話していたし、また気がつくとよく仏壇の前に座り、母親の名を呼んで涙を流していた。そういうことをたびたび目にした。

 

まだ小さかった祖母はその母親に手を引かれて、隣りの町まで歩いていった。

 

 

その後数十年の時が過ぎ、孫の私がはじめて隣り町と自分の家の間を歩いたのは成人式の帰りのことだ。

 

夜遅くまで飲んで、交通手段がなくなった。タクシーでも呼べばそれまでなのだが若かったこともあってか友人たちが歩こうと言いだして自分も歩くハメになった。そんなわけでこのときは自主的に歩いたわけではない。

 

祖母が幼かった昭和初期には、タクシーはおろかバスすら通っていなかったそうだ。大雪が降ったら今であればでっかいブルドーザーがタイヤチェーンの音を響かせながら、まだ夜も明けやらぬ時間から動き出して除雪してくれる。でも昔はそんなのもないし、今のように除雪のインフラが整っていない。だからみんなして雪を踏んで固めて道をつくってそこを歩いたと言うからずいぶん時代がちがう。

 

この地域は東北でも有数の雪深いところで、私が小さいころまでは大雪が降ると1階まで埋もれてしまって2階から出入りするということもよくあったらしい。

 

どういうわけか今ではそんな話も聞かなくなったが、とにかくそんなふうにして踏み固められた道を、幼いころの祖母はその小さな手をとられて隣の町まで歩いていったという。

 

そして以前聞いたそんな話を、ふと思い出しては

 

「車で行ってもそれなりの距離なのに、小さな子供が歩いて往復するなんていうことがほんとうにあるのだろうか…」

 

と思ったり、

 

「でもそんな小さな子供にできることが自分にできないわけはないよな…」

 

などと考えたりした。

 

「小さな子供」に敗けているという思いもどこかにはあった。しかし当時の人にとってみれば悔しいもなにもなく、それが当たり前のことだったのだろう。

 

「なんでバスで行かなかったのか」と聞くと「バスなんかないから乗れるわけもない」という答えが返ってくる。

 

とにかく昔の話を聞いていると自分の想像を飛び越えた世界がそこにあるから話がなかなかかみ合わないのだが、逆にそこがおもしろかったりする。当時は今と比べてかなり経済が遅れていたようだから、どうしても近所で手に入らないものがあると隣の町に行くより手だてはない。自家用車はもちろんバスも通っていないから、歩いていくしかないし、誰もかれもそれが当たり前という世の中だったということになる(今ではネットでなんだって買えるのだが…)。

 

 

――家族にそんな話をすると即座に「今は平成の時代だよ!なにバカなこといってるの!」という答えがかえってくる。「そうか?」と言いながらも(…人間ってのはほんらいはこうやって隣りの町まで歩いて往来して生きてきたんだよな…)などと頭の中で考えていたりしている。

 

ただどちらにしても歩いていると爽快な気分になってくるのは確かだし、妙な自信もみなぎってくる。さっきまでモヤモヤしていたのはなんだったのかというくらい気分も昂揚してくる。モヤモヤとか悩みなんてしょせんその程度のものだと思えてくる。

 

 

もう一つ、「ナニ言ってんの!」と言われることがある。

 

それは「旧日本軍の兵隊さんは、何十キロもある荷物をしょって一日に20㎞も行軍したんだぞ」という話だ。

 

その話を妻にすると「その話は何度も聞いた」と言われて終わりだ。もちろん、これも戦時中のことだから昔の話と言ってしまえばそれまでだ。

 

しかし自分の同級生に聞くと、幼いころに自分のおじいさんから戦争に行った話をよく聞かされて育ったというのをよく聞いた。戦争の話になると、急に活き活きと話し始めて聞かされるから困るというのだ。

 

私と同年代の人には、そういう経験があるという人が多いと思う。私の祖父世代というのは、だいたい若いころ兵隊にとられて、たまたま運がよくて帰ってきたという人だろう。ちなみに私の二人の祖父はどちらとも戦争から帰ってきた人で、二人ともロシアで捕虜になっている。片方はシベリアに抑留され、もう一人は途中で(なぜか)朝鮮に移送されて強制労働をさせられていたが、うまく抜け出して月のない夜に脱走してなんとか引き揚げてきたそうだ。

 

いずれにせよ、じぶんたちのおじいさんが実際に戦争にいってたいへんな思いをして帰ってきたという話を直接聞かされて育ったということは男の子の人生観に大きな影響を与えたに違いない。

 

「自分の体重と同じぐらいの荷物を背負って、日に何十キロも歩かねばならない」という話を聞いたときに、「…ひと事ではない」と急に焦ったという男は私だけではないはずだ。

 

「…男に生まれたからには、いつか戦争に行って死ぬかもしれない」

 

そんな意識がいまだに頭のどこかにあるのは、きっと私だけではないだろう。

 

つまり、「もし戦争になって一兵卒として徴兵されたたときに、荷物を背負って長い距離歩けなくては大変だ」ということだ。

 

馬鹿げた考えだということは重々承知だ。現実的にはもし現代の戦争でこんなことをしていたら、確実にその国は敗けるだろう。しかし、そういうことではない。戦争が起きたときに、最低限は対応できる体力は養っておかなければならない――。自分でも笑ってしまう考えだが、男ならどこかで共感できるのではないだろうか(?)

*1:アドラーのこと。彼によると、サーカスの団員とかことさらに体力を要する職業についている人は、じつは幼少期に体力的・肉体的なコンプレックスを強く抱いた経験を持っている人が多いということを指摘している。アドラー心理学の重要なキーワードの一つが人間の持つ「劣等感」であり、その文脈において彼はこのことを指摘している

*2:石橋湛山『湛山回想』

「忖度(そんたく)の授業」と子どもたち~ぼくらが小学生だったころ~

「忖度(そんたく)の授業」というのがあるという。

 

それも塾や予備校の話ではなく、ふつうの小学校で。

 

「そんな話きいたことない」 という声が聞こえてきそうだ。

 

それもその通りで、小学校の時間割のどこを探しても「忖度」の文字はない

 

ただじっさいに教育に当たっている先生とか、その教育の枠組みを作っている役所の人などに聞けば、「ああ、あれのことかな」と苦笑するかもしれない

 

少々なぞなぞめいた話だが、じつはみんな「忖度の授業」を受けていた。

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◆教室の戸棚からみつけた奇妙な本

センター試験」が、あと数年で終わるときいてびっくりしたのは私だけだろうか

 

子供のころにオヤジの世代から「共通一次試験」なんて言葉を聞かされてピンと来ず、ずっとあとになって「あぁ、ようするに昔のセンター試験のことか」となんとなくわかった気がした。これが今度は自分が”オヤジ”になって「おれのころはーー」と言う番になるかと思うとヘンな感じだ

 

子どもの頃にはこんなこともあった

 

小学3~4年生ぐらいだろうか。教壇の脇にあった戸棚の引き戸を開けるときれいな装丁がされた見慣れぬ冊子を見つけた。その冊子をみると、なぜだか他の教科書とはちがったヘンな書き方がしてあってどうやら授業のやり方・教え方が書いてあるようだった。私はこれをみて「・・・なぁんだ、先生も答えをみながらおしえているのか」と思った。(ちなみにすぐに勝手にみているのが先生にバレてどやされてしまったけれど・・)

 

この「先生の虎の巻」とも言うべき「学習指導要領」も、まもなく10年ぶりの改訂を迎える。

 

ところでこの新しい「虎の巻」に「忖度(そんたく)」の時間が加わるという話なら面白かったかもしれないけれ。でもそうではなくて、それどころか、もう「実施」されているという話だ

 

 ◆「ソンタクの授業じゃないですか!」

その日わたしは朝のテレビ番組をみていた。

 

そのころ世間では「教科書から坂本龍馬の名前が消えるのらしい?」という心配がでてきたりして、各局がこぞって教育がこれからどうなっていくのだろう、ということを取り上げていた

 

そしてその日もある公共放送で、これからの教育がどうなっていくかということを特集していたのだが、番組の一番さいごにになって番組を見た視聴者からの反響が紹介された

 

その日は全国的にもちょうど冬休み期間ということもあり小学生からのお便りが含まれいた

 

それは次のような内容だった

 

・・・小学5年生です ぼくは道徳の授業がとてもいやです

なぜか。

それは答えが用意されているような気がするから。

それがイヤです

イヤでたまりません

 

アナウンサーがこれを読み上げると、スタジオにいたあるコメンテーターがすかさずつっこんだ。

 

「! まさにソンタクの授業じゃないですか!」

 

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すかさず反応したのは、ハーバード大卒のお笑い芸人・パトリック・ハーラン氏だった。つまりパックンマックンの外人さんの方だ

 

ーー米国人ならではの反応、というべきだろうか

日本人の中で、こうはっきり言える人と言ったら誰だろう

 

「自由の国・アメリカ」というフレーズを思い出す

海外には「忖度」に相当する言葉がなかったため日本で取材する特派員の記者たちは翻訳するのにずいぶんと苦労したという話をきいたことがある 。「忖度」というのは、もとは古い中国だそうだが、その当の中国人でさえ日常的につかう言葉ではないらしい。それだけ「忖度」というのが日本に特有の文化だというようにもみえる

 

しかし、じゃあ外国人がまったく忖度しないかと言えばそれも考えづらい(そもそも忖度のない組織なんていうのがあるだろうか?)逆に言えば、”初めて〈忖度〉を意識したのは日本人”ということもできるかもしれない

 

ところでこの番組を見てしばらくたったある日、今度は別のジャーナリストがこんなことを言っていた。

「道徳が正式に教科になることによって全国の学校で”忖度力”が養成されかねない。まあ、財務省の官僚を養成するにはいいかもしれませんが――。」

こんななかなか皮肉が効いたコメントをしたのは池上彰氏だ。類は友を呼ぶ、というが彼は奇しくもパックンの仕事仲間でもあるという。

 

 ◆「ソンタクの授業」と”優等生”

「道徳」が正式に「教科」になったということでいろいろと議論が起きている

 

子どものころ時間割には5時間目あたりにちゃんと「道徳」とあったから音楽や図工と同じく教科の一つだと思っていた。でも、「道徳はいままで正式の教科でありませんでした」と初めて聞かされて逆に驚いた人も多かったことだろう。

 

そういえば昔よく「道徳」の授業はすっとばされていたっけ。授業進度が少し遅れるとすぐに道徳の時間が算数とか数学になって、「えーっ」というブーイングが起こっていた記憶がある。

 

わたしはさっきの”小学5年生”と同じく道徳の授業では最後になんとなく「答え」が用意されているようで違和感を感じてはいたが、道徳じたいは大好きだった。なんとなくなにかに包まれている感じもした。

 

さらにふしぎなことに、道徳だけ得意なヤツとかもいた。ほかの教科ではとくに目立った成績をあげるわけではないのだが、道徳の時間だけは並みいる優等生がおし黙っているのを尻目に決然と手を挙げ、かなりいい答えをする。みんな感心して「おーっ」と声があがる。 それをみて私は(・・敗けた)という敗北感とか悔しさはあったけれど、ふしぎと嫌味は感じなかった。忖度の結果として出た答えというよりは、ただ本当にそう思ったから答えた、という印象だった。

 

彼は私と幼なじみで、私の結婚式にも出席した関係だが、どちらかというと忖度するのが好きなタイプではなかった。しかし、じつは忖度するセンスは抜群だったのかもしれない。

 

彼はガス屋に就職して、今も重いプロパンガスを家庭に届けている(さわやかなところがあるいい男だが、いまだに結婚式の招待状が届かないことだけがもどかしい)。

 

通知表を見る男の子のイラスト(ショック)

 

そう考えてみると、じつは「道徳」の授業で忖度するというのはそれほど簡単なことではないかもしれない。ふだんあれだけ勉強が得意なやつらが肝心なところでこたえられなくなってしまう。そこでふだんまったく目立たない子がふと出した答えがスマッシュヒットだったりする。きっと彼らは、たとえその日一日だけでも誇らしい気持ちになっただろう。そして一生そのことを覚えているかもしれない

 

いままではそんなチャンスがいとも簡単に失われてきた。

 

そう考えてみれば、お上の方から「道徳はちゃんとした教科だ。流さないでしっかりやれよ!」と圧力がかかったとしても、結果としてはいいかもしれない。

 

 

もちろんいろいろと気になることはある。1学期の終わりに通信簿をひらいて成績評価をみたときは、みんな少しはドキドキしたのではないだろうか。「道徳」の成績評価を見た経験はないけれど、いったいどんな気分がするものなのだろう。そして、どんなことが書かれているのだろうか。

 

「道徳」が「教科」になってから初めての通信簿が、今年から家庭に渡る。国語や算数の評価とならんで「道徳」の成績評価も始まることになるが、これには困惑の声や異論を耳にすることも多い。

 

はじめての「評価」をどうすべきか、先生方も苦労されることだろう。

 

でもこれからの子どもたちは5時間目の道徳の時間が国語や数学に変えられなくなるのならうらやましいなあというふうには思う。

 

そんな子供だったのは、私だけだろうか。

 教えるのが下手な先生のイラスト(女性・小学校)

 

 

〈道徳の教科化〉

 これまで小学校には教科外活動として「道徳の時間」があったが、2018年度から教科化された。これにともなって「道徳」の成績評価が始まる。評価のしかたをめぐってさまざまな議論があったが、最終的にはABC評価のような順位や序列をつけるやり方ではなく、記述式で行うことになった。ただし本来、多様であるはずの個人の生き方や考え方、価値観に対して評価を与えるということについては異論もある。

 年間35コマの授業が義務化され、もちいる教科書はほかの教科と同じように文部科学省の検定を受けなければならない。

 教える内容は「善悪の判断」「誠実」「思いやり」「国や郷土を」愛しているかなど。

 今年(2018年度)から小学校で教科になり、来年からは中学校でも教科としての道徳が始まる。

 

 

世間はいったい何に対し怒ったか?~日大アメフト部タックル事件の根底に横たわるのは

 

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日大アメフト部の反則を巡っては、ずいぶんと長いあいだメディアを賑わした。事件から1か月を経てもなお収拾する気配がない。

 

反則を指示した疑いがもたれる元監督に対して、世間は目は極めてきびしい。常務理事の辞任に追い込まれているにもかかわらず、だ。理事長に対しては「辞任せよ」という動きまで出ている。

 

いったいなぜか。

 

世間はいったいなにに対して怒っているのだろうか?

 

コーチや選手にすべて罪をなすりつけ、自らは責任を逃れる(かに見える)監督にだろうか

 

あるいは「勝手な思い込みでやったことだ」と一方的に学生を突きはなし、その後一貫して冷淡な態度を示しつづけてきた大学に対してだろうか

 

さもなくば勝手に忖度(そんたく)した、ということにされて誰がが冷たく切り捨てられていく組織のあり方に対してだろうか

 

都合の悪いことにはすべてフタをしろ、見て見ぬふりをしろ、永久に闇の中に葬ってしまえ、という組織の論理に対してだろうか

 

 

このことは一向、独り日本大学だけの問題ではないだろう

 

政治家や官僚がやっているのを見てそれを民間がマネしただけ、というようにも見える

 

安倍総理とその手足になって働いている周りの人間たちは、いいお手本を示し続けているようにみえる

 

本人たちにはそのつもりがあるかはともかく、一生懸命、国民を「感化」し続けるかたちとなった。国のトップとして、率先して模範を示しつづける様子を、日本全国・津々浦々で小学生までも注目している

 

 

今回の反則問題で、あらためてパワハラの構図というのが浮き彫りにされている

 

組織に属したことのある人であればこのようなことは程度の差はあれ誰しもが経験し、見聞きしたことではないだろうか

 

今回、”アメフトの試合”というわかりやすい”舞台”があった。実際の場面が撮影されており、動画で拡散しTVで日本中が知ることとなった

 

とは言え正確なアメフトのルールがわかる人はほとんどいなかったろう。しかしあの動画を一目見て異常なプレーだと思わない人がいるだろうか

 

さらに監督がコーチを通じて学生に反則の指示を下したのではないのか、という点が議論になった。自分では直接手を下さず、ひとにやらせるというやり方だ。この点もいじめの構造としてはわかりやすく、多くの人が直感的に理解したことだろう。

 

ここまでならまだましだった。

 

ところが大学側はある種、理想的な対応をした。本来ならばそれにいたる事件の経緯を誠実に説明することが謝罪の第一歩になるはずだった。少なくとも部として、大学として、それを説明する責任を負っていたはずだった。また誰もがそれを求めていた。

 

ところがその責任はいつまでたっても果たされることはなかった。日大が相手チームに対して出した答えは次のようなものだった

 

指導者による指導と選手の受け取り方に乖離(かいり)が起きていたことが問題の本質と認識しており

 

ーつまり「指導者」の意図したことと、「選手の受け取り方」にズレがあったと言いたいわけだ。コミュニケーションの行き違いといえば聞こえはいい。しかしこの言い方、やはり「既視感」がある。どこかで聞いたような言い回しではないか。

 

「部下が勝手な思い込みでやったことで、自分が指示したことではない。一切かかわっていない」

 

うんざりするほど聞いた気がする。

 

「記録はぜんぶ捨てたなんて、そんないいわけがまかり通るのか、」と納税者の反感を買い、国政のトップで仕事をしていた官僚が、まるでこいつらが全部わるいとばかりに槍玉にあげられた。組織的に文書を改ざんしていたことも明らかになった。

 

しかし、よくよく考えてみれば彼らがかわいそうになってくる。

 

どこかの国では、権力のトップとか財閥のお偉いさんとかを何か理由をつけて引っぱってきて吊るし上げて、うっぷん晴らししているようだ。それと同じにはなりたくはない。官僚を吊るし上げにしてうっぷんが晴れてしまっては、それこそ思うつぼではないか。

 

そもそも彼らがそれほどまでに忖度(そんたく)をしたとすれば、それはほかならぬ官邸の気に入らなければ絶対に出世できないからだし、彼らをそばに置いているのはほかならぬ官邸の意向でもある。結局、そういう人たちを起用したのは誰か、という問題になる。

 

また何が彼らをそこまで追い込んだのか、ということでもある。本来、官僚というのは民間に対して”法律をしっかりと守りなさい、守らんとタダじゃおかんぞ!”というスタンスで監督するのがだいじな仕事のはずだ。運輸局とか、財務局とか、そういった官庁のトップに位置するのが今、ニュースを騒がしている官僚の方々だ。万が一、民間が官庁に提出するべき書類を改ざんしていたら、それを許してはならない立場にあるのが官庁なのだ。だから文書を改ざんするということがどういうことなのか、誰よりもわかっているのが官僚という人たちだ。

 

それでもやった、ということなのだ。

 

言ってみれば、絶対にありえない反則をやったのだ。

 

それをやらせたのは誰なのか?

 

国のトップの説明は、どこまでいっても言い訳がましく誠意を尽くしているように見えない。まるでどこかの私立大学のトップのように。

 

政治のやり方に向けられた私たちの疑いの目・不満や怒り、そういったすっきりとしないフラストレーションが今回、「またか」と言わんばかりに”アメフトの試合での反則”というわかりやすい場面を得て噴出した。日大に、そして元監督に向けられた。しかし、やはり日大も同じようにのらり、くらりと追及をかわし、どこまでいっても納得のいく結論が出ることはなかった。こういった問題にとっての宿命のようなものなのだろうか。

 

しかし私たちの気持ちにこのようなもどかしい思いがもしなかったとしたら、反則をめぐってもここまで大きく騒がれることもなかったのかもしれない。

 

そんなことをしている間に資産家の亡きがらから覚せい剤が検出されるというスキャンダラスな報道がニュースを席巻してしまった。大阪で大きな地震が起き、小学生を含む3人が亡くなるといういたましいことも起きた。ワールドカップも始まった。

 

すっかり私たちの気がそれたところに、今日の加計幸太郎氏の釈明会見が開かれた。まさに機をみて、というところだろう。

 

しかし、ワールドカップがいかに盛り上がろうと、日大の反則事件に対する司法の対応がどのような結果に終わろうとも私たちの心の内にくすぶっている疑問が消え去ることはないだろう。

 

ものごとに白黒つけないことで成り立っていることが、世の中にはいかにあることか。ほかならぬ筆者も、思い返せばそんなことばかりでずいぶん助けられている。

 

しかし一方でどこまで行っても結論が出ない状況にうんざりしている人がいるのも確かだ。「国民もずいぶん馬鹿にされたもんだ」そんな声をじっさい聞く。

 

幸か不幸か、大阪の検察は財務省の職員の起訴を見送った。罪に問われない、ということだ。しかし問題はこれで終わりではない。制度上もそうではあるけれども、なによりも私たち国民が納得していない。

 

「私は何もしていないのに、部下が勝手に動いたんです。」

 

そんな態度に傷つけられてきた人たちが、どれだけいるだろう。

 

実名を明かしてテレビに姿を現したアメフト部の3年生に同情した人も多かったのではないか。

 

「反則問題」は、まだ終わってはいない。

 

 

知っていますか?チョコレートを食べる前に知っておきたいこと ~私たちの心・からだが受けている影響~

 

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夜もふけた11時過ぎ、なぜか急にチョコレートが無性に食べたくなって、葛藤(かっとう)したけれど遂に欲望にあらがえず、気がついたら板チョコ一枚食いつくしていた・・そんな経験があるのは筆者だけでしょうか?

 

じつはこれは単に意志を強く持てばいいとか、お腹がすかないように食べておけばいいとか、そうとも言い切れない部分があるのです

 

最近ではチョコレートにはポリフェノールが多く含まれることが知られているため、チョコレートが健康に及ぼす良い効果が注目されているようです

 

ただしそんな今だからこそチョコレートの持つもうひとつの側面ーーいや、いくつかの別な顔について知っていおいても損はありません

 

知らないままだと損をしつづける可能性も大アリです

 

特に次のようなかたは要注意です

 

牛乳を飲んで、おなかがゆるくなったことがある人

 

コーヒーを飲んでねむれなくなったことがある人

 

妊娠の可能性がある女性・妊娠中の女性

 

 チョコレートは以上のどの人にも関係のある食品です

 

 

 ⒈チョコレートには乳糖が含まれている

まずチョコレートにはふつう乳糖(にゅうとう)という成分が含まれます

 

乳糖とは耳なれない単語ですがようは牛乳にふくまれる糖分のことです。牛乳を飲むとほのかな甘みを感じます。これは乳糖の甘みです。甘さを感じる食品はいろいろとありますが、果物などにふくまれる糖分や、ご飯が消化されて最終的にできる糖分などとは糖の種類自体が違います

 

乳糖は母乳の中にも含まれています。つまり私たちは母乳や粉ミルクで育った人ならだれでも乳糖のおかげで成長したわけです

 

ただこの乳糖について一つ困ったことがあります。ほとんどの人は成長するにしたがってこの乳糖を消化する力が小さくなっていきます

 

たとえば「おれ牛乳飲むと腹こわすから・・」といって給食の牛乳を毎日残す人が学校にいませんでしたか?これは乳糖を分解する酵素(こうそ)が成長するにしたがって減っていくためです。もちろん気合いが足りないとか、好き嫌いはいけないとかいうこととはまったく別の話です

 

腸のなかに入ってきた乳糖を分解・吸収する能力には個人差があり、赤ちゃんであっても母乳を消化できずに下痢をしてしまうこともあります。また大人になってから牛乳を飲んでもぜんぜん平気という人もたくさんいます

 

このように乳糖のためにおなかがゆるくなるなどの症状が出たばあい、お医者さんでは”乳糖不耐症”という診断が出されることもあります。文字どおり乳糖への耐性がないために消化器症状がでることです。(逆に言えばお医者さんもそれ以上言いようがないわけです)食品不耐症の一種で、アレルギーとも別なものです。

 

それで、なぜこんな話を今ここでするのかというとはじめに触れた通りチョコレートにも乳糖が含まれています

 

ですから、「わたしは別に牛乳を何杯飲んだって平気」という人はべつとして、「なんか牛乳を飲んだ日はおなかがゆるいようだ」「ヨーグルトを食べすぎると調子が悪い」というようなことに心当たりがある人は注意が必要でしょう。乳糖をお腹の中に入れるという点ではチョコレートを食べることは牛乳を飲むこととなんら変わりません。食べ過ぎてお腹がゆるくなったとしても、なんの不思議もないわけです

 

ただ考えてみれば、乳ばなれしてる以上はお母さんのおっぱいを消化・吸収できる必要はないわけですから、からだの仕組みとして当然と言えば当然のことでもあります。このような生理的なしくみは人間に限らずほとんどのほ乳動物にみられます。生物として自然なことなのです

 

ともあれ、ここまでがひとつ目の注意点です

 

 

2.チョコレートにはカフェインが含まれる

次に、これはもっとわかりにくい点です

 

チョコレートにカフェインが含まれていることを知っていましたか?

 

これについては先ほどのべた乳糖(にゅうとう)の方はまだましです。パッケージの裏に書かれた「原材料名」をよく読めばそこにはっきり「乳糖」と書いてあるからです。堂々と材料として表示されているわけですから、消費者としては「そんなのが入っているなんて知らなかった」とは言えないわけです(ふだんあまり読まないとは思いますが)

 

これに対してカフェインが入っているなんてことはチョコレートのパッケージのどこを見ても書いてありません。それもそのはずで、そもそもが原料であるカカオ豆に含まれているからです。コーヒー豆や緑茶を買って「原材料名:カフェイン」と書かれていないのと同じです。

 

当たり前と言えば当たり前ですが、意表をついています。盲点をつかれた気分です

 

チョコレートにカフェインが入っていると聞いていまだに信じられないというかたもあるかと思います。ただしチョコレートにカフェインが含まれていることは明らかで、農林水産省の資料を見ても、厚生労働省の資料を見ても、また外国の保健省の発表を見てもチョコレートにカフェインが入っていることを前提にしています

 

 ◆デカフェの流れの一方で…

ところでノンカフェインもしくはカフェインレスをうたった飲料・食品も多く発売されています。 たとえば次のような商品はどちらもカフェイン0をうたっています。CMなどで見かけることも多いでしょう

 

キリン 生茶デカフェ  PET 緑茶(430ml×24本)

 

アサヒ飲料クリアラテfromおいしい水600ml×24本

 

消費者のなかに「なんとかしてカフェインをさけたい」という思いを持っている人が少なからずいる、ということでもあります。特に女性のばあい、妊娠に直接関係してくるので注意が必要です。

 

ところでカフェインにねむ気覚ましの効果があることはだれもが知ることでしょう。夜おそい時間にコーヒーを飲んだらねむれなくなった、という話を耳にします。しかし、一方で「試験勉強のために夜コーヒーを飲んだけど、すぐ寝ちゃった。」という話もよく聞きます。このことからもカフェインの効き方は人によってかなり違うとことがわかります。カフェインの感受性には個人差があるのです

 

カフェインが私たちにもたらす作用はねむけ覚ましだけではありません。心と体の両方に影響します。おしっこがたくさん出たり(利尿作用)、脂肪が燃焼しやすくなり基礎代謝が向上します。血圧は上がります。体温も上昇します。疲労感を軽減してくれる一方で、大量に摂取すると不安やイライラを誘発するということもわかっています。このほかにも様々な作用があり、ここでは書ききれません

 

またカフェインが入っているのは食品だけではありません。かぜ薬や頭痛薬にも入ってる場合もあります。たとえばかぜ薬の箱をよく見るとカフェインがいくらいくら入っている、ということがちゃんと書かれいます。カフェインは中枢興奮・鎮痛薬として認められた薬物でもあるのです。ですがその一方でチョコレートなどの食品に含まれる量については表示されていない、ということも事実です。

 

さらにチョコレートに含まれるカフェインとその類似物質であるテオブロミンには依存性があるということが指摘されています。これはコーヒーを飲んだりチョコレートを食べたりといった行為が習慣になっていく主な原因でもあります。カフェインの効果がきれると不安や抑うつといったさまざまな”離脱症状”が起きてくることも知られています。夜、なぜか衝動にかられて板チョコを食べつくした・・という話を冒頭であげましたが、ひとつのの依存状態といえるかもしれません。(ちなみにこれは筆者の過去の実体験でもあります)

 

 

◆チョコレートのカフェインは微量?

それではチョコレートにはどれだけのカフェインが含まれているのでしょうか?

 

東京都の保健福祉局の情報をもとに計算すると、板チョコ一枚には、平均して約30㎎ぐらいのカフェイン含まれています*1

 

コーヒー一杯に含まれる量はおよそ90㎎ですので、”板チョコ一枚に入っているカフェインの量は、平均してコーヒーの3分の1”ということが言えます

 

ただしこれはあくまで平均の話であって、チョコレートにどれだけのカフェインが入っているかというのには商品によってかなり幅があります

 

主な理由として考えられるのがカカオの割合です。

 

たとえばあるミルクチョコレートではカカオが27%の割合で入っています。ビターチョコレートでは40%、ダークでは55%です。そしてハイカカオと呼ばれるもののばあい70%もの割合でカカオが含まれています。ミルクチョコレートに比べると約2.6倍です

 

こうなってくると、カカオの割合が高まるにつれてカフェインのレベルがコーヒーに近づいてくるのがわかります。先ほどの東京都のデータをもとにすると、チョコレートに含まれるカフェインの量は最大で板チョコ一枚につき90㎎、これは先ほど見たコーヒーの数値と同じです。つまりコーヒーなみのカフェインを含んだチョコレートがあるということです。

 

お店でハイカカオのチョコレートを手に取る人のなかに、このことをわかったうえで商品をレジに持っていく人がどれだけいるでしょうか?

 

たとえば仕事でくたくたになって帰ってきて、今日一日の自分へのご褒美としてチョコレートを買う。ポリフェノールが多いという理由でハイカカオのチョコを選んで、寝る前にひと口食べたらついイッキ食いしてしまったーーところがいざふとんに入ったはいいけれども寝返りばかりうってなかなか寝つけないーー。カフェインに対して感受性がある人なら、こういったことが起きても不思議なことは何もないということになります

 

イカカオチョコレートに限らず、チョコレートにカフェインが入っていること自体、知らずに生活しているという人は多いのではないでしょうか?

 

企業のプロモーションのしかたもなかなか工夫されています。たとえばパッケージの箱をあけると内がわには「朝、すっきり目覚めたいあなたに・・・」「集中力が切れたときのリフレッシュに!」といったことが書かれています。「時間帯や気分によって食べ方を変えて、いろいろな楽しみ方ができるよ」、というアピールで、チョコレートの楽しみを広げてくれます

 

ただ、ここには逆に読めば企業側の葛藤(かっとう)を読みとることもできるわけです。上の例では朝・昼・晩ご飯の前に食べることを提案してはいても、就寝前や夕食後のリラックスタイムに食べるようにはすすめてはいません。「時間帯」によって食べ方を変えることをすすめているのです。なぜでしょうか?これはまさにチョコレートには覚醒作用がある、ということをはっきり言っているようなものです。

 

企業のホームページをみると”チョコレートにカフェインが入っている”ということも書いていますので、当然カフェインの影響についてはわかっているわけです。しかし「カフェインが入っています。お子さん・高齢者などは心身に影響が出るので十分注意して食べて下さい。また妊娠中もしくは妊娠の可能性があるかたは、食べ過ぎると胎児の成長に悪影響がおよぶ可能性があるので注意してください」などとは書けないわけです。先ほどのような書き方をすることで精いっぱい、と解釈することもできます。

 

ちなみに国民生活センター(国の機関です)がハイカカオチョコレートについておこなった調査では、「カフェイン量が表示されている銘柄はなかった」という結果でした。*2普通のチョコレートとハイカカオチョコレートあわせて15種類のチョコを調べてみたが、カフェインがどれだけ入っているか書かれているものはひとつもなかったそうです。

 

ちなみに海外ではカフェインが心身に与える影響を考慮し、一日にどのぐらいまでならカフェインをとってもいいよ、ということが国によっていちおう示されています。たとえば妊婦さんならコーヒーをマグカップで2杯ぐらいまで*3、「健康な成人」なら3杯ぐらいまで*4ならOK、という具合です

 

チョコレートに換算すると、妊婦さんであっても一日に板チョコ6枚までなら食べていいよ、ということになります。こう考えるとだいぶ気がラクですね。

 

ただしここで気をつけたいことは、これらはあくまでイギリスやカナダの政府機関が発表した基準であり日本人の体格などは考慮されていないことです。

 

では日本の政府機関はなんて言っているかというと、面白いことに日本では基準は設けられていないというのが答えです。現在「情報を収集している段階」*5にあるとは言っていますが、「カフェインに対する感受性には個人差があるので」という理由で国としては「日本人が一日にこれだけならチョコレート(カフェイン)を食べていい」という基準を設けてはいないのです

 

一見、無責任な態度のように見えますが、「情報を収集している」ということは確定的な情報もないということもできます。最終的には個人差があり、人によっては少し食べただけでも体に変調をきたす人もいます。カフェインを分解(代謝)する能力には遺伝子の違いも影響していると考えられているので、個人差があるのはあたりまえです。そう考えると基準値を一概には言えない、という結論になってしかたない側面もあります

 

「自分はコーヒーに敏感だな…」と感じている人は、はじめからコーヒーの飲み方などには気をつけているでしょう。しかしまさかチョコレートで目がさえたり、興奮したり、依存性があるなんて知らなかった・・という人はけっこういるのではないでしょうか?

 

健康への害が少ないとされる一方で、その身近さゆえに小さな子供や健康に不安を抱える人でも気軽に食べてしまうのがチョコレートです。デカフェがひとつのトレンドを形作っている一方でどの食品にカフェインが含まれているか、どの程度入っているかという情報は知らされないままになっています。企業は「入ってないよ」とアピールはするが「入ってる」ということについては沈黙を守っています。国民生活センターは2008年に「高カカオチョコレートにテオブロミンやカフェイン量を表示するよう要望する」と言っていますが、実現されていません。

 

ある人々にとってデカフェは切実な問題でもあります。まずはチョコレートをはじめどういった食べ物にカフェインが入っているか。これを把握していくことがデカフェを始めるもうひとつの大切なやり方であることは間違いないでしょう。

 

〈関連記事〉

qtaro-kujo.hatenablog.com

 

 

*1:チョコレート100gにふくまれているカフェインの量は平均して61㎎、板チョコ一枚はおよそ50gとして計算

*2:2008年、”高カカオをうたったチョコレート”のテスト結果

*3:英国食品基準庁・カナダ保健省

*4:カナダ保健省など

*5:食品安全委員会の見解

毎日、会社で腹を下していた私が快適な「腸生活」を手に入れるまで(5)~この納豆を選べばいい!~

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「大豆と枝豆は同じもの」ーー

 

一見、腸の環境改善となんの関係もなさそうなことです

 

しかしこれはキーポイントです

 

ほとんど誰も気が付いていないように思います

 

「大豆と枝豆が同じもの、という話は聞いたことがあるけど半信半疑だ」

 

という人は私だけでしょうか?

 

長年そんな思いを持っていた筆者ですが昨年、この疑問を直接たしかめる機会を得ました

 

たまたまヒマをもてあましてベランダ菜園を始めたのです


ホームセンターでなんとなく選んだのは枝豆の種でした

 

ところが袋に入っていたのは、なんのことはないただの大豆。

 

”ビールのつまみに最適!”なんていう広告の文句が書かれてはいますが見た目はどこをどう見てもただの大豆です

 

それで園芸雑誌などを参考に育ててみると夏ごろには青々とした枝豆が育ちました

 

「枝豆のタネ」を植えたんだから当たり前ですが、じゃあこれをほったらかしにしておいたら本当に大豆になるのか、と思って試しに一部を収穫せずに放っておきました

 

するとだんだんと枯れてきて秋口になるとちゃんと大豆になっていました

 

大豆を蒔いたら大豆が収穫できた、という当然すぎる結果とも言えますが、同時に半信半疑だった気持ちも消えました


まちがいなく「枝豆は大豆の若もぎ」でした

 

ところでこれは本当に余談ですが、大豆と枝豆が同じということをもっと簡単に、それも誰にでも実感できる方法があります

 

カッチコチの大豆を、しばらく水に浸しておくのです

 

どうなるでしょうか?

 

答えは「枝豆ができる」です

 

大豆を水に戻すと枝豆に戻るのです

 

ただし色は大豆とほぼ同じです(緑色ではありません)

 

イチから大豆を育てるのはたいへんですが、大豆を水につけておくぐらいはわけないことです。関心のあるかたにはぜひ一度試してみてはいかがでしょうか

 

ちなみに私はこのことに偶然気づきました。収穫し忘れてこぼれていた大豆が、雨でふやけて戻っていたのです。これにはほんとうに驚きました。

 

 

◆なぜ納豆で腹がもたれるのか

ところでなぜここで「枝豆=大豆」ということをこれほど力説する必要があるのでしょうか?

 

それは納豆は本当に消化に悪いか、ということにかかわってくるからです

 

 

食べるときは普段あまり気にかけないかもしれませんが、納豆は大豆を発酵させたものです。だから納豆をよく見るとひと粒ひと粒に薄い皮がかぶっています

 

つまりこの皮は枝豆にかぶっているうす皮と同じものであるだけでなく、さらに成熟した豆の皮なのでもっと硬いということだって考えられます

 

わかりやすくするために、もう一度そら豆に戻って考えます

 

もし仮にそら豆でも大豆と同じように納豆を作ることができるとしたら、その出来あがった「そら豆納豆」を皮ごとむしゃむしゃ食べる人がいるでしょうか?

 

いくら発酵食品で体にいいからといっても、ふつうはできないでしょう

 

みかんを食べるときだって、人によっては薄皮を食べない人もいます

 

コーンポタージュに皮は入っていません。ぜんぶ濾(こ)して捨ててしまいます

 

お米だったら(脱穀するのはもちろんとして、)玄米を精米し、白米にしてから食べます

 

ほんとうは栄養面その他もろもろ考えると、白米ではなく玄米を食べたほうが圧倒的に有利であるにもかかわらず、そうします

 

その方が食べやすく、おいしいからです

 

 

納豆をそのまま食べるということは、皮ごと豆を食べているという点では、そら豆を皮ごともりもり食べることとなんら変わりありません

 

そう考えると少し胃腸が弱っている人がこれを食べたら、消化不良を起こしてもなんの不思議もないと考えるのが自然です

 

まちがっても体の弱っている人・病気の人にそのまま食べさせてはいけない食べ物だ、と考えます

 

 

では(筆者のように)納豆を食うと調子がよくないとうタイプの人は、いっさい納豆を食うのをガマンしなくてはならないのでしょうか?

 

こんなにカラダにいいと言われ、ほんとうは水溶性食物繊維も豊富でお腹にいいはずなのに。そしてなにより「おいしいから本当は納豆が食いたいんだ!」という人もいるはずです

 

そんなことはありません。

 

ガマンしなくてもいい方法があります

 

 

納豆を買うときに「ひきわり納豆」を選べばいいのです

 

 ◆ひきわり納豆とは?

じつは納豆の種類には大きく二つあります

 

ひとつは一般的な粒の納豆、もうひとつは「挽き割り(ひきわり)」と言われている種類です

 

ひきわり納豆」というのは人によってはあまりなじみがないかもしれません。「ひきわり納豆ってナニ?食べたことないね。そういえばスーパーで見たような気もするけど我が家の食卓には出てきたことがないよ」という人もいます

 

逆に「わたしの家では、納豆といえばひきわり、ひきわり納豆以外が食卓に出てきたことはない」という人もいます

 

美味しそうにご飯を食べる男の子のイラスト

 

ひきわり納豆とは、納豆の製造過程で大豆を挽(ひ)いて(割って)から発酵したもののことです。食べるとわかりますが、砕けて割れているので普通の納豆に比べて粒が細かくなっています。逆にひきわり納豆を食べて育った人が初めて一般的なつぶの納豆をたべると、「なんかツブがおっきいな…」という印象を抱くかもしれません

それぐらい見た目の印象も違います。

 

ご自分でコーヒー豆を豆から挽いていれたことがあるという人であれば、イメージがしやすいかもしれません。コーヒー豆ほど細かくはしませんが、豆を「挽き割り」にするという点はよく似ています

 

ところでこの「ひきわり」、ただ割れて粒が小さいということのほかに決定的に重要な違いがあり、それが豆の薄皮が全部むけているという所なのです

 

なんという素晴らしいことでしょうか⁈

 

豆のうす皮のせいで胃が苦しいハラがゆるいと悩んでいたところに、その困ったうす皮が全部取りのぞかれた納豆がスーパーに売っているなんて!?

 

ひきわり納豆というのは豆をひいたときにに薄皮がはがれてしまうので、それは全て取りのぞかれた上で発酵されます

 

しかも値段もふつうのつぶ納豆とたいして変わりません(1パック10円ぐらい高い程度)

 

大豆の皮が消化に良くないという問題はこれで解決です

 

このことに気づいて以降、納豆を食べた日の手ごたえ(腹ごたえ)というのは格段に改善しました

 

食後の胃の辺りの不快感が軽減しました

 

ただし筆者のばあい納豆をひきわりに変えただけでは十分ではありませんでした

 

パック一個、朝にぜんぶ食べるとそれでも胃腸の負担に感じることがあったので一個ぜんぶたべるのはやめてパック半分を食べることにしました

 

これで納豆にかんしてはすべてが解決しました

 

その後、

 

(やっぱり皮は関係なくて、たんに量を減らせばいいだけだったのではないか…?)

 

という思いがふたたび頭をもたげ、試しにつぶ納豆をパック半分食べてみました

 

ーー結果、胃の不快感は出るしお腹もゆるくなるという結果になり、最終的にはやっぱり挽きわり納豆に落ち着きました

 

いまは、継続して毎日表彰状をあげたいぐらいお腹の調子は快適に過ごさせてもらっています

 

納豆を食べて調子が悪いという日がありません

 

半分食べるというとなんだかケチくさいような気もしますが、逆に生たまごやめかぶとなど他の食材と合わせるにはちょうどいい量です

 

保存の手間などはありますが、逆に食事に工夫の余地がふえたということもあります

 

今回のアメフト・反則問題について ーーほんとうに恥知らずなのは独り日大だけなのか?

今回の日大アメフト部の試合中に悪質な反則が起きた問題について、連日さまざまな意見が飛び交っている

 

しかし、この一連のやりとりを見ていて、とりわけ日本大学の広報部のコメントを目にし”既視感”にとらわれたという人は私だけではなかっただろう

 

「・・・なんか同じようなやりとりをどこかで見たような気がするけど・・・」

 

”既視感(デジャヴュ)”とは本来の意味では「ほんとうは見てはいないのだがなぜだか不思議と見た気がする」ということになるのだろうけれども、今回のは違う

 

実際に見て、耳にしている

 

それも私一人の個人的な体験ではなく

 

ずーっと同じようなやりとりを耳にし続けてきた、この何か月

 

日本全体がもう、耳に慣れてきていたはずだ

 

このやりとりが

 

今回、日大の試合でラフプレーがあったことで一番得しているのは誰だろうか?

 

ワイドショーの見出しトップは一気にこの問題に一色に塗りかえられた感がある

 

国会での野党の追及は、現在、新しい段階に進みつつある

 

どういうわけか、次々に新しい資料が出てくる

 

「都合の悪いことは隠そうとしているんではないか?」

 

どんなに国会に興味がない人であっても、そんな疑問を持たない人がいるだろうか

 

「指導者による指導と選手の受け取り方に乖離(かいり)が起きていたことが問題の本質と認識しており・・・」

 

というのが日大が大学として出した回答だった

 

こうなってしまってはもう取り返しがつかない

 

猫も杓子(しゃくし)も、国会答弁を真似しはじめている

 

今や、北朝鮮があまりにもミサイルを発射するものだから、まだ字も読めない幼稚園児でさえミサイルは「キタチョーセン」から来るということを知っている

 

そのうち保育園児ですら

 

「あいつが勝手にソンタクしたんだ、ボクわるくないもん!」

 

などと言いだすのではないか

 

加えて大学というのは教育を行う場所だ

 

つまり人をつくる場所だ

 

そこで作られた人々が、社会にはばたいていく

 

あるいははばたけずいく

 

そのひとりひとりが世の中を結局作っている

 

そう考えれば高度な公益性、公共性をもった事業体だと言うこともできる

 

その事業体をもってしてこの醜態をさらしている

 

二十歳そこそこの、若いと言っても言い足りない若者である

 

その人に記者会見までさせてしまっている

 

見上げた根性とでも言えばいいのか

 

いったい、この丸刈りの、さわやかな風のある青年を見て特攻隊の青年たちのことを思い出した人も多いだろう

 

いったい、どうしてこうもいつの時代も若者が犠牲になるのか?

 

日本という国は70年前から一歩も進歩していないというのか?

 

もういちど聞きたい、猫も杓子(しゃくし)も、なのだ

 

猫もしゃくしも真似しはじめてしまっている

 

あまりにもニュースで、テレビで、新聞でネットで毎日のように同じような話を聞かされて、もうすっかり覚えてしまったのである

 

こうなってしまっては、首相が直接かかわったかどうかなんていうのはどうでもよくなってしまっている

それを通りこして事態は進行してしまっている

 

国会論戦はおおいに結構だが、

 

私は問わずにはいられない

 

「総理、あなたは今回、反則問題について責任を感じないのですか?」