Q太郎の『いぎなり怒らった』

~しみわたる一杯の水~

「ウニヒピリ」 ――もうひとりの自分――(3)

qtaro-kujo.hatenablog.com

 

翌週、アンケートの結果について先生がしてくれた説明を聞いて私は軽くショックを受けていた

 

「もう一人の自分」という感じ方には個人差があって、「なんとなくそういう考えが浮かぶ」という人もあればハッキリと声が聞こえるという人もいる

なにがいい悪いということはなくして、だいたいこの講義を受けている6割以上の人がこういう感覚を持っていると答えた

 

 

「なんだと?6割だって?」

 

私は耳を疑った

もう10年以上前のことだから数字がちがっているかもしれない

しかしとにかく多数派だったのだ

8割だったかもしれない

 

私は

「せいぜいいたとして数%ていどだろう」

とたかをくくっていた

 

その見当は外れていた

 

先生は追い打ちをかけるように付け加えた

 

「多少のちがいはありますが、一般の人に同じような調査をしてみるとやはりだいたい同じような結果になります」

 

つまりこの教室だけが特別ではない、ということだった

 

「・・・ウソだろ」

 

 

「もうひとりの自分」なんてどこか遠い世界のことだと思っていた

自分には関係のない話だと思っていた

でもそれはちがった

それはすぐ隣にあった

それどころかむしろその方がふつうで

自分の方が少数派だったのだ

 

20年も生きてきて気づかなかった

 

「自分がヘンなのか?」

 

そのことを受け入れられずにいた

 

 

 

それから十数年の歳月が過ぎた

自分はこういったことの専門家ではないが、一つだけはっきりわかったことがある

それは

 

じつは自分にも「もうひとりの自分」がすんでいた

 

ということだ

 

いたのだ

 

もうひとりの自分、が。

 

ただ気づかなかっただけなのだ

気づいてあげられなかっただけだった

 

「ホ・オポノポノ」ではそのもうひとりの自分と向き合いなさい、大事にしなさい、と言っているだけなのだ

 

決してたんなるおまじないなどではない、と私は受けとめた

 

 

ただ筆者のばあい、気づいたと言っても急になにかが聞こえてきたわけではなかった

 

なにかが見えるようになったわけでもなかったし

 

話しかけてくるものがあったわけでもない

 

ただじぶんの中にあった様々な感情

 

「これは嫌だ」「嫌いだ」「好きだ」「心地よい」

 

そういったものに少し注意を向けてみたというだけにすぎない

 

その簡単なことがそれまではできなかった

 

それも当然と言えば当然だった

 

そもそもそんなふうに感じているということを自分でもわかってすらいなかった

 

それか「これは嫌だ」と思ってはいても何らかの理由でその気持ちにフタをしている

嫌だと思うかどうか、これは実は自分にとって大問題であるはずなのにたいした問題ではないと思っている

ヘタをすればそんな気持ちなかったことにしている

 

「自分はこれが嫌いではないはず。好きになれるはず、ほんとうは好き(なはず)」

 

そうやって自分に言い聞かせて、ヘンなことになっている

 

 

このことにあるとき私は気づいた

 

自分の中にある本当の気持ち

 

おそらくハワイでは昔からこれを「ウニヒピリ」と呼ぶのであろう

 

妖精のようだと言えばたしかにそのようでもある

 

幼い子供のかたちをしているといえば確かにそうだ

 

「あれはキライ」

「これはスキ」

 

子供のようではないか

 

「そんなこと言っていてはいつまでたっても立派な大人になれませんよ」

「子供じゃあるまいし」

 

そんな声がどこかから聞こえてきそうだ

そしてそんな声にばかり耳をかたむけてきた

 

しかしあるとき気づいた

ほんとうはもう一つの声があることに

 

「イヤだよ」

「こっちにしたいよ」

「やりたくない」

 

そんな本当の自分を大切にするにはどうすればよいのか。

 

 

長い歴史の積み重ねの中で、ハワイの人々がその方法を獲得した

 

それが「ホ・オポノポノ」なのではないか

 

そんなふうに受けとめてみることにした 

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