Q太郎の『いぎなり怒らった』

~しみわたる一杯の水~

思いがけず心うたれるもの

以前、友人の結婚式に呼ばれたときの話だ
時間を見計らってエレベーターに乗り込むとちょうど同じく招かれた同級生と乗り合わせた
彼は奥さんと一緒だった
「おう、ひさしぶり!」
先に気がついたのは友人の方だった
「!ひさしぶりだな」
久しぶりに会う親しい友人だ(…昔に比べると少し目元がつかれてきたか)
「Q太郎、やせだなぁ!」
「まづな(まぁな)」
高校時代から比べたら10㎏近くやせているので無理もない
「もう、子ども大きいべ?…何才?」
一通り子どもの状況の話をして盛り上がると、部活のマネージャーだった奥さんが言った
「二児の父だぁ」
友人もつづけた
「…おれだぢもがんばらねばなぁ」

エレベータで聞いたその言葉には、焦りのにじみ出ているのが確かに感じられた

エレベーターはそのまま私たちを31階の会場まで連れて行った

 

こどもが生まれていいこととはなんだろう
もちろん、たいていの人は子供を持ったらそれを喜びにしているようだ
私もその一人だ
しかし一方で大変なことも多いし、なによりそれによって生まれる苦しみもある
とくに母親などはそうとうな程度で子供に振り回されたり、しばられているように見える
それは、身体的にも、肉体的にも、精神的にもだ

たとえば母親は子供を産み落とした次の瞬間から、もうおっぱいをあげている
男に産まれた身にはわからないが出産するということは大変な体力を消耗するものだそうだ
こんなふうに書くと女性には𠮟られるかもしれない
「大変な体力を消耗する、なんてもんじゃない」
とにかく男にわかるはずがない、というスタンスがいつも妻からは感じられる
そのたいへんなことをした次の瞬間から子育てははじまっている
赤ちゃんは赤ちゃんで必死で生きているから、母親の状況を心配しながら泣くなんてことはしない
男についているのは飾りのようなおっぱいだけだが、それでもミルクをあげるぐらいはできるかもしれない
しかしそれは赤ちゃんが粉ミルクを気に入れば、の話だ
そうでなければ、母乳をあげるよりほかない
こうなると男には手も足も出ない
母親は当面のあいだ子供から離れる方法はなくなってしまう

そしてこのことは一つの例に過ぎなくて、このほかありとあらゆる面で子供は親がいなければ生きてゆけない


あるいは成長したらしたで心配は絶えない

暗くなったのに帰ってこない、
不審者に声をかけられた、
(どうやら)どこの誰ともわからない男と親しくしているらしい…

あげたらキリがない

 

「子ぼんのう」という言葉にはなんとなく「子供をかわいいがるいい親」というニュアンスが含まれるように感じられる
これはこれで間違いではないのだろうが、これを反対の視点から見たらどうなるのだろうか


「子ぼんのう」は漢字で書くと「子煩悩
つまり「煩わしい(わずらわしい)」と「悩み」ということで、毎日子供といっしょにいる女性にとって、この意味はすんなり入ってくるのではないだろうか

お釈迦様(おしゃかさま)は出家するにあたってすべてを捨て、妻も、子どもも捨て修業の道に入った
自分の子供が生まれたとき彼はその子に(あろうことか)「障害物」というような意味の名前をつけたそうだ

(たしかに人生は障害物競走にも似ているけれど・・・)


この話を妻にしたときは即座に
「とんでもない男だね」
と冷たいことこの上なく、けんもほろろの反応だった


しかしどこかにお釈迦様の気持ち、わからなくもない、いやその通りだよという自分もいる気がする

そういったわけで、筆者もお釈迦様に少なからず同情する一人だということをここに白状する

あなたはどうだろうか

 

日本人であれば大多数が小さいころから仏壇に手を合わせ、お墓参りしたことがあるだろう
しかしその一番に尊敬されている人が29才にして妻と子供を捨てている
私の頭ではフシギとしか言いようがない


しかし子供がいたおかげでよかったと思うことが先日あった
よかったというよりは「得したなあ」という方が当たっている
そしてじつは、これは場合によっては自分の子供でなくても「得する」ことが可能だ
甥っ子とか、とにかく身近に小さな子供がいればよい

とくにこれをおすすめしたいのは疲れたサラリーマン、お父さん、心が荒んでしまった人
傷つき倒れた人、などなど…とにかく元気があふれている人にはさほど効果はないだろうと思う
元気が減退中の人にすすめたい

 

その得する方法とはなにか
…それは「学習発表会」に参加してみる、ということだ

 

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